役者をやることになった。
決まった時はものすごく驚いた。
二年生になり、新しい脚本での練習が始まったけれど、まさかそうなるとは全く予想していなかったから。
ちなみに私の話ではない。
花菱くんが、やることになったのだ。

「花菱くんが、ミノル役かぁ…………」
「うん」
「他の先輩がやってたのもよかったけど、花菱くんがやるとどうなるんだろうね」
「少し、見ただろ」
「うん。でも最初から最後まで見てみたいよ」
「……そうかな」

そう言って、椅子の上で体育座りをした花菱くんは体を前後に揺らす。
これをする時は、決まって嬉しいか照れてるかだ。
どちらにしても、悪いとは思っていない時の反応だと、最近わかった。

「でも花菱くんが役者やるなんて、驚いたよ」
「……兄ちゃんも、驚いてた」
「あはは、伊岸先輩も?」
「うん。……『宗太、できんのか』って」
「先輩は花菱くんの演技を見たことが無いからね」
「別に…………何でもないだろ、あんなの」
「私、花菱くんの声好きだよ」
「そんなの……」

そう言って、今度は髪の毛をいじる。
今度は、照れている。
ジャージの首を隠す部分にあごを埋めて、何やらぶつぶつ言っている。
花菱くんは、言葉数が少ない分、残りが動きで出てくることがある。
だから、見ていて飽きない。
こんなこと言ったら、怒っちゃいそうだけど。

「……なんで、籾山は役者じゃないんだよ」
「え?」
「役者、やんないの」

そう言って、体をゆするのを止める花菱くん。
そのまま私を見つめるので、私は考えてみた。

「私は……花菱くんのサポート頑張るよ」
「……何それ」
「えーっと……うーん。私は花菱くんが役者やってるのを応援したいから、同じ役職じゃない方がいいかな」
「……だから、何だよそれ」
「いてっ」

私の答えに納得できなかったようで、耳をぎゅっとつままれる。
お返しに私がまっすぐ花菱くんを見つめると、花菱くんもじっと私を見つめる。

「…………」

つり目気味で大きめの目はどこか中性的で、いとこの伊岸先輩とは似ても似つかない。
ユニセックスとまではいかなくとも、花菱くん独特の雰囲気があるような気がする。
何となく先生が役者に選びたくなる理由もわかる。花菱くんの顔は、百合川先輩と違う意味で特徴的だ。
それに声も、どこまでも通るハキハキした百合川先輩みたいな声ではないが、
力がどこにも入らず、何の抵抗もなく耳に届く声だ。

「…………」

花菱くんは1センチくらい顔を近づけてくる。
私は少し驚いて、いつの間にか花菱君の顔が近くに迫っていたことに気づく。
さっきと変わらず、私をじっと見つめている。



「…………」
「……ご、ごめん。ギブアップ!」

いつの間にかにらめっこになっていたようだ。
花菱くんがあんまり、当然のことのように私の目をじっと見ているから、思わず笑いを我慢できなくなる。
花菱くんは得意気な表情で定位置に戻り、また体を揺らし始める。
あれ…………嬉しいのかな?
私は、手に持っていた脚本にもう一度目を通す。
すると、手元が眩しい光で照らされていた。
日がだいぶ傾いてきていた。
それでもまだ帰りたい気分にはなれず、何も言わないで脚本の続きを読む。
花菱くん演じるミノルは、端的に言ってしまえば多数派の人間だ。
長いものにはまかれろ主義の人間。そんなキャラクターである。
ミノルは少数派の気持ちが全くわからなくなり、最終的には救われない人間の部類になってしまう。
多数派の敗北。それは一体、何を意味するんだろう。
……花菱くんの方をちら、と盗み見る。
花菱くんは、窓の外の夕日を見ていた。
私だけじゃない。花菱くんもきっとわかっている。時が過ぎていること。
夕日を目を細めて見ている花菱くんは、ただただ黙っている。
だから、それでいいのだ。

「…………そっかぁ。花菱くん、役者になっちゃうんだ……」
「…………どういう意味」
「何でもないよ」
「…………」
「…………」

穏やかに時が過ぎていく。

教室に二人きり、私が後ろに座って、前に花菱くんがいる。
ただ一緒にいるだけで、なんだか落ち着く。

「……俺さ」

唐突に話しかけられ、少し驚く。

「何?」
「先生に、言われたんだ」
「何て?」
「…………その」

そう言って、またジャージにあごを埋める。
マスクの下で、何かを言いよどんでいるみたいだ。
私は小さい声も聞き逃さないように、聞き耳をたてる。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………かっ」

…………か?
何だろう。

「……切れって」
「切る?」
「うん」
「えっと……何を?」

そう言うと、またジャージにあごを埋める。
困った。言いにくいことだとは思うんだけど、想像ができない。
切るって、何をだろう。
私が考えていると、花菱君ははっきりと言った。

「髪の毛を、切れって」



役作り、という言葉がある。
演劇の中でそれは大事なものの1つ。
キャラクターが成り立つために、脚本に書いていない部分まで役者は想像をめぐらす。
たとえ死後の世界の話でも、生前の生活を想像する。
それも、役作りだと想う。
でも多くの場合、最初に観客が感じるのは何といってもビジュアルなわけで。
ビジュアルから感じる印象、雰囲気は劇を左右する。
だから役者はメイクをするし、髪型も変える。
少しでも、その役になるために。
でも……。

「……そっか。先生は何も言ってないんだ」
「うん」

次の日の部活も終わった放課後に、また私たちはいつもの教室にいた。
花菱くんの話によると、直接的に「髪を切れ」と言われたわけではないらしい。
『役について考えて、その上で髪形を決めろ。その髪型ではお前の個性が出すぎてる』
…………と、言われたらしい。
私はずっと気になっていたことを、聞いてみることにした。

「……花菱くんは、何で髪の毛を伸ばしてるの?」
「アキラ」
「え?」

唐突に、誰かの名前をあげられる。
私の知っている『アキラ』を脳内で探してみると、一人思い当たる人物がいた。
私と花菱君が知っている『アキラ』といえば彼しかいない、と思う。

「アキラ、知ってるだろ」
「もしかして、もん☆はんの?」
「そう。俺、好きだったんだ。アキラ」
アキラとはゲーム中に出てくるお助けキャラで、とにかく強い。
なかなかパーティに加わらないが、いる時の心強さは大きい。
彼は花菱くんみたいに髪の毛が長くて、それを高く結っている。それも赤いリボンで。
髪の毛の色こそ違うけど、それはアキラの髪型に近いものがある。
花菱くんが髪の毛を指先に巻きつける。
これはアキラが戦闘に勝った時にする仕草でもある。

「……アキラに憧れて、アキラの真似したくなったんだ。……強いだろ、あれ」
「うん、そうだね」
「俺、だから真似してたんだ。アキラの髪型を」
そう言って、花菱くんは唐突に髪の毛のリボンを解く。
高く結われていた髪の毛が一気に落ちてきて、さらに長くなる。
私はこの時、髪を解いた花菱くんを初めて見た。
窓から入ったゆるい風にふわふわ揺らされて、すごく綺麗だった。
そのままさらさらという音が聞こえてきそう。

「…………」

長い髪の毛に包まれて、静かに手元のリボンを眺めている。
ぽつりと、声が聞こえた。

「このリボンもアキラの真似」
「…………」
「……特に、強くはなれなかったけど」

自嘲気味に笑う。
笑ってくれよと言わんばかりに、うつむきながらの笑い声が聞こえた。
リボンを、手が白くなるくらいぎゅっと握りしめていた。
私は駆け寄り、その手に手を重ねる。
……冷たい。
花菱くんが、目を丸くして私を見つめる。
私はただ、こんなに冷たい手をできるだけ暖めてあげたかった。
ふわりと髪の毛が揺れて、私に向き合う。

「……ごめん。変な話した」
「ううん」
「ずっと髪の毛長かったから……切るの、ためらう。それだけ」

花菱くんはどこか吹っ切れたように上を向く。
上を向いたまま、何かを考えているみたいだった。
目線は天井に注がれているけど、花菱くんには何が見えているんだろう。
何を考えているんだろう。
冷たい手の感触だけが、リアルだった。

「……ありがとう」

そう言って、私の手を自分の手の上からゆっくり剥がしてくれる。
私の指が一本一本花菱くんの手の上から離れていく。
私からぱっと離してしまえば早いのだけれど、この花菱くんの優しさがくすぐったくて私はされるがままになる。
花菱くんは、いつも私に優しくしてくれる。こっちが申し訳ないと思うくらい。
こうやって指を剥がす仕草も、私にだけ見せてくれてるのかなと思うと……すごく嬉しい。
花菱くんが私の指を全部剥がし終わると、今度は自分の髪の毛を一気に束ねてしまう。
大きく揺れる髪の毛とは逆に、花菱くんは落ち着いた声で言った。

「でも、もう決めた」
「え?」
「やっぱり髪、切るよ」
「……そっか、うん」
「籾山には、切る前に言いたかった。……どうしてかわかんないけど」
「ううん、ありがとうね」

髪の毛をまとめ終わり、首を揺らして邪魔な毛をどかす。
その仕草が、なんだか可愛いと思ってしまうのは私が彼を好きだからだろうか。

「……じゃあ、どんな髪型にするの?」
「普通の、男の人みたいな」
「……じゃあ、随分切っちゃうの?」
「うん」
「うーーん……勿体無いなぁ」

花菱くんの髪の毛に触ってみる。
少し嫌そうな表情をしてるけど、お構いなし。
花菱くんは大人しく触られてくれる。

「それで、いつ切っちゃうの?」
「明日」

…………え?
声にも出せず、花菱くんを見つめた。

「…………早く切りたいんだ」
「そうなの?」
「うん」
「うーん……どうして?なんだか勿体無いよ……」

そう聞くと、花菱くんは少し笑いを堪えるような顔をする。
……どういうことだろう。
花菱くんの気持ちの真意を量りかねていると、花菱くんははっきりと言った。

「みんなの反応が楽しみ」

そう言う自分に、自分でも驚いたみたいにあははと笑い始める。
出会った初め、こんなことを言って、こんな風に笑う花菱くんが想像できただろうか。
楽しげに口元を綻ばせているのが、マスクをつけていてもわかった。



次の日はあいにくの雨だった。
気をつけて歩かないと、水溜りを踏んでしまう。
傘をさして、花菱くんの家へ向かう。
私は、髪を切ってしまう前に花菱くんの家にお邪魔することにした。
そして、一緒に美容院に行く予定。
とりあえず、着いたら今の状態の写真をとっておこう。
それと最後くらいは盛大に三つ編みをさせて欲しい。
許してくれるかな。
そう思いながら、ピチピチと音を鳴らして花菱くんの家へ向かう。
花菱くんはいつも私が家に行くとき、外で待っててくれる。
それが申し訳なくて、今日は少し早めに家にたどり着く。
…………着いて思ったけど、早く来たら迷惑だったかな。
今更遅いか、と思い、インターフォンを鳴らそうとしたその時。

「あ……」

玄関の扉が開く。
花菱くんが出てきた……とばかり思っていた私は驚いた。
傘のせいで表情はよく見えないが、細身の女の人だった。
白いカーディガンの前を全部閉め、ベージュのパンツを履いている。
……おそらく、花菱くんのお母さん。

「…………」

その人と少し目が合って、すぐ逸らされる。
花菱くんのお母さんらしき人は、私の横をすりぬけてどこかに行こうとしている。
何か話すことがあるわけじゃないけど、気づいたら私は声をかけていた。

「あ、あの!花菱くんの…………お母さんですよね?」

ぴたりと相手が止まる。
雨の中だったから声が聞こえないかもと思ったけど……よかった、聞こえてたみたい。
それでも、こっちを見てはくれなかったけど。
少しの沈黙の後、小さく息を吐いたように見えた。
くるりと、首だけでこちらを振り返る。

「……そうですけど」

やっぱり。
長くて真っ黒な髪の毛が、顔の半分を隠している。
表情がわからなくて、少し戸惑う。
緊張しながら、私は言葉を続けた。

「え、えっと……花菱くんと同じ部活の、籾山です」
「こんにちは」

軽く頭を下げられる。
花菱くんのお母さんの後ろに流れていた髪の毛がぱらぱらと前に落ちてきて、一瞬顔全体が見えなくなる
。 顔を上げても、やはり表情ははっきりと見えないままだ。
言葉とは裏腹に、あまり歓迎されている雰囲気ではない。
うっとうしがられているのかもしれない。
めげずに私は喋る。

「実は今日花菱くんと遊ぶ約束をしていて……お家にお邪魔させていただきますっ」

妙な緊張感のせいで、言葉を一息で、早口で言ってしまう。
口が渇いて、思わず自分の手と手を合わせてしまう。
沈黙が怖くて、さらに言葉を続ける。

「あの、私、花菱くんの友達でして、その……今日は……」

言葉が上手く続かない。気づけば視線は自分の手元まで落ちていた。
相手はどんな表情で、どんな気持ちで、私を見ているんだろう。
少し焦り始めたとき、思いがけず正面から声がした。

「宗太の……友達ですか?」
「え、……はい、そうです」

やっと相手の表情が見えた。
少し痩せてはいたが、花菱くんに似た猫のような目が綺麗なお母さんだった。

「遊びに……きてくれたんですか?」
「はい。髪の毛を切りに行くって言ってたので……ついていこうと思って」

すると花菱くんのお母さんは眉根を寄せる。
やばい、変な事を言ってしまったかな。
そう思った瞬間、私の合わせた手に白く細い指が添えられる。
その手は驚くほど冷たかった。

「宗太は……真面目な子なんです。周りには変に思われてますけど、真面目な、いい子なんです。
仲良くしてくれて、ありがとうございます。ほんとに、本当に……」

添えられていた指が、私の手を強く握る。
私の手に触れた冷たい指の感触は、花菱くんのそれに似ていた。
目に透明な雫が浮かんでいた。

「ごめんなさいね。宗太、私が声かけると気分悪くなるみたいだけど、友達ならいいわよね。声かけてあげてね」

うつむいていた顔を上げて、私にそう言った女性の頬に一筋の涙がつたう。
やだ、と言ってまた指で涙を拭っていた。
泣きながら、花菱くんのお母さんは唇に笑みを浮かべていた。

「それじゃあね。宗太をよろしくお願いします」

深く頭を下げて、軽くうつむいたまま私から離れていく。
思わずその後姿に声を投げかけてしまう。

「わ、私も宗太くんとは仲良くできて嬉しいんです!」

とっさに出てきた言葉が、意外に恥ずかしくてはっとする。
次の言葉を出せずにいると、軽く会釈をされてそのまま歩いて行ってしまう。
私もこれ以上声をかける必要を感じなくて、ただ呆然とその背中を見送っていた。
……花菱くんが、いつかの帰り道に『親は自分に興味が無い』と言っていたことを思い出す。
悲しそうな顔でそう言った花菱くんと、花菱くんのお母さんの涙がかぶってしまう。
そんなことないと思うよ…………花菱くん。

「籾山!」

大きな音と同時に、私を呼ぶ声がした。
驚いて声した方を見ると、花菱くんが目を見開いて立っている。
何かあったんだろうか。辺りを見回し、誰もいないことを確認するような動きをする。
本当にどうしたんだろう。
じっと見ていると、花菱くんはふと視線を下げて、何か考え始めたみたいだった。
そしてゆっくり歩きながら私に近づいてくる。

「花菱くん、どうしたの?」
「…………上から、見てた」
「……私の、こと?」
「うん」

ということは、お母さんと話していたところを見ていたんだろうか。
きっとそうだと思う。

「…………あのね、さっき花菱くんのお母さんと話したんだよ」

その言葉で花菱君は、水溜りに落ちていた視線を私に向ける。
やっぱり目が似ている。そう思った。

「……そう」

深く息を吐いて、それだけ言うと私に背中を向けた。
そのまま家の中に入っていく花菱くんに、私はついていく気になれず、少し考える。
何か私は、今言うべきことがある気がして……。
玄関の扉に手をかけた状態で、花菱くんが止まった頃。
私は少し大げさに声を出した。

「私ね、花菱くんのお母さんに『宗太をよろしく』って言ってもらったんだよ!」
「……は?」
「『宗太をよろしく』って言われたの。だから」

大げさに、努めて明るく、顔には笑顔を貼り付けた。
作った笑顔と言えば聞こえが悪いが、私にはこうする他思い浮かばなかった。
そしてスキップ気味に花菱くんに駆け寄ると、

「これからもよろしくしちゃうんだから」

と言って、えい、と花菱くんの背中を押す。
花菱くんはよろけた後で半分驚き、半分困ったような表情で、私を振り返る。
でもその後すぐ、苦笑いをしてくれた。
それでよかった。
作り笑いとか、明るくしてることとか、色々バレてる気がするけど。

「ねぇ」
「何?」
「母さんがそう言ったの?」
「そうだよ」
「……本当に?」
「嘘つかないよ」
「…………本当の、本当に?」
「本当の本当の本当です」
「…………」
「お母さん、花菱くんのこと好きだと思うな」
「……………………」
「あ、耳赤い」
「うるさいっ」

そっぽを向いて、そのまま家の中に入ってしまう。
私は少しにやにやしながら後ろをついていく。
花菱くんは何も言わずに、少し先で立ち止まって私を待っていてくれた。



「え?こんなに?バッサリと?」
「はいっ、お願いします!」
「…………何で、籾山のが気合入ってるんだよ」
「当たり前だよー!スゴク緊張する……」
「あはは、仲がいいんですねお二人は」
「ふふ、仲良しだもんね?」
「…………はぁ」
「彼女さん、そこで切るの見てるんですか?」
「駄目ですか?」
「いいえ、いいですけど」
「カノジョ…………」
「いいよね?花菱くん」

顔を近づけて花菱くんに尋ねる。
何も言わずに、少しだけ耳を赤くしていた。
私が美容師さんに向かって指でOKの形を作ると、その人は可笑しいように口の端を震わせた。

「じゃあ、切りますよ」

花菱くんの真横に座っている私は、横顔を気づかれないように見る。
緊張した表情かな、と思いながら見たその凛々しい表情にドキッとする。
鏡を真正面から見据えて、寧ろワクワクしているようにも見える。

「花菱くん」
「何」
「もう半分なくなっちゃったよ」
「わかってる」
「あははっ」
「…………あ」

鏡に映る窓から覗く空に、綺麗な虹がかかっていた。