「…………んん」

ベットの上で寝返りをうつ。
さっきよりは体は楽になり、どこにも痛みは感じない。
ただどことない気だるさのせいで、起き上がるところまでは気が行かない私。
もう一度寝返りを打って、枕の横に置いた携帯電話を開く。
時間を確認すると、もうとっくに放課後になっていた。
こうなることは何となく予測していたので、鞄はここに持ってきていた。
帰る準備は整っているけど、まだ帰る気にはなれない。
もう少し、この気だるさが取れるまでこのままでいよう。幸い、先生も声をかけにきたりはしない。
そっと瞼を閉じる。

「…………」

しかし、さっき一時間たっぷり寝たせいで、眠気はなかなかやってこない。
もう一度寝返りをうつと、腰の辺りに違和感を感じる。
じぃんと、痛いわけではなく、何かが響くような違和感。
何度と無く通ってきた女の子の日だけれど、やはりこればかりは慣れない。
ベットの上で体を丸め、上にかかったふとんを手でぎゅっと握り締める。
早くおさまれ、早くおさまれ。
気休めにしかならない念を腰に送り、私は深く息を吐いた。
……本当にどうして神様はこんなものを人間の体に取り付けたんだろう。
せめて年に一回とかにできなかったのかな。
しょうもないことを考えていると、外の廊下から女の子の声がした。
そのまま保健室の戸が開く音がして、今まで無音だった教室に高めの声が響く。

「掃除終わってるじゃあーん」
「マジ」
「かえんべ」
「クレープ行かね?」
「金ない〜」

楽しげに笑う声が、段々と遠ざかる。
どうやら先生は、今は席をはずしているようだ。普通何か言うと思うんだけど、誰の声もしないから。
そして戸を閉める音がしなかったので、多分開きっ放しなんだろう。
外の音がベッドを包むカーテン越しに聞こえてきた。
廊下を歩く音、走る音、話し声、吹奏楽部の楽器の音……。
保健室に(多分)一人でいる今、聞きなれた音がまるで別の世界のことみたいに思える。
一人ぼーっと、白い天井を見上げてみる。
ふと先月の大会のことが思い起こされた。
次の夏、高校演劇の全国大会へ進む私達は夏の全国大会と並行して来年の地区大会の準備も進めている。
三年生が引退してしまってから、本当に部室が広くなった気がする。
加えてみんなでよく言うのは、百合川先輩がいないと部室が静かだということ。
いつも一緒だった白雪先輩も突然退部してしまい、静けさは倍増した。
何故、白雪先輩が退部してしまったかはわからない。
受験に向けて身を落ち着けたいと言って退部した二年生の先輩もいるけれど、白雪先輩がそれを理由に退部する気はしない。

「…………」

何も、思い当たる節がない訳ではない。
でもそれは……なんだか私には想像もできない世界な気がして、やっぱり白雪先輩はすごい両親の子なんだなということを感じる。
もし叶うなら、戻ってきて欲しい。
役者の要が突然二人もいなくなるのは困る、とかいう理由じゃなくて……もっと話をしたかったと今更ながら後悔している自分がいるからだ。
勿論、有名人の娘だからとか、そういう理由でもない。
ただ白雪先輩と、普通の話をしたことが無いからしてみたいというだけ。
いつも部活に演劇、それに百合川先輩の話……それ以外の話はほとんどしたことがないと思う。
だからもっと違う話をしてみたい。
例えば…………百合川先輩と初めて会ったときの話とか、すごく興味がある。
どういう状況で出会って、どこを好きになったのか……。
……あれ、これって結局百合川先輩の話?
そんなことを考えていると、ふとカーテンの向こう側に人の気配を感じた。

「……?」

とんとん、と紙の束を机の上で整えるような音が近くから聞こえる。
先生が戻ってきたんだろうか。
もう一度携帯を確認するけど、さっきからあまり時間は経っていない。
誰かが入ってきたなんて気付かなかった。
先生は小柄な女の人だから……あまり足音をたてて歩く方でもないので、気付けなかったんだと思う。
そろそろ帰れと言われるのだろうか。
……仕方ない。そろそろ起き上がろう。
家に帰って横になっていた方が、落ち着くかもしれないし。
そう思って、ベットから体を起こしてみる。
まだ体のどこかがだるい感じはするが、気付かないふりをする。
そのまま上履きを履き、ブレザーを羽織って鞄を肩にかける。
鞄がずしりと重たい。
今日に限って、宿題のために辞書が二冊入っているのだ。
徒歩で帰る私にはこれが応える。その上今日は女の子の日……。
仕方が無いと諦めて、私はベットを覆っていたカーテンを開いた。
外はもうオレンジ色になりかけていて、少し目を細めてしまう。
窓際に誰かが立っていた。
先生だと思っていたその人物は、よくみると先生ではない。

「……あ」
「…………え?」

……その人物は、よく見知った私の先輩。
桃ノ花学園演劇部の元部長。

「あ、あれ……柚さん?」
「そ、そうです……けど」

伊岸先輩がいた。
驚いた表情のまま、手にプリントの束を持ちながら立ち尽くしている。
カーテンを開けたまま固まっている私も多分、同じような表情をしていると思う。
…………
惚けた頭を叩き起こして、私は今の状況を整理する。
…………

「え、えっと……先輩は今、何をしてるんですか?」
「俺は……少し仕事を」

そう言って手に持っているプリントを少し上げてみせる。

「……プリント、ですか」
「ああ。全校生徒に配る用のなんだけど、各クラスごと毎に分けて欲しいって言われて」
「そ、それを……先輩一人でやるんですか?」
「いや、俺の分担は3年生の分だけ。もう終わるよ」

そう言って、最後のクラスのプリントの一辺をトントンと机に当てて整える。
私は鞄を持ち直して、先輩の近くへ向かった。

「でも、どうして先輩がこんな仕事をしてるんですか?」
「ああ。俺、元保健委員だったから……帰ろうとした所を先生に見つかってな。頼まれてくれって」
「な、なるほど……」

そこらへんにいた元保健委員をつかまえるって……どれだけ忙しかったんですか先生。
でも、伊岸先輩が保健委員だったって言うのはなんだか納得できる。
看護師さんの格好とか、似合いそうだもんなぁ……。



……はっ!
わ、私今、何考えた……の?
いけない……。妄想はよくない……。
くだらないことを考えている私を他所に、先輩は私に話しかける。

「ああ、それと一人寝てる人がいるから起きていたら帰るように言っておいてって」
「あ……そうだったんですか」
「ああ。後は窓の戸締りだけ確認して帰ってくれって」

よし、と言って全てのプリントを先生のデスクの上に並べ終える。
それは綺麗に並べてあって、やっぱり先輩は真面目だなと思わされる。

「どこか悪いのか?」
「え?」
「寝てたんだろ?今まで」
「あ、はい。そうですけど……もう全然、大丈夫です。マシになりま」

話していると、突然お腹が痛んだ。
あまりに唐突で、咄嗟に前屈みになって手でお腹をおさえる。
その拍子に、左肩にかかっていた鞄がずるりと落ちて、辞書二つ分の音をたてて床に落ちた。

「柚さん」
「だ、大丈夫ですよ。慣れてますし」

言ってはみるものの、どこか説得力の無い言葉だ。
辞書二つ分の音が、それを余計に説得力の無いものにした気がする。
とりあえず笑ってごまかしてみるけど、先輩の表情は険しいままだった。

「……うん、わかった」

沈黙の後、先輩は言った。

「俺が看病する」



別にこれは病気じゃないんですけど……とは言えず、私は言われるがままにまたベッドで横になった。
こうやって横になるまでも、まるで本当に病人を扱うように丁寧に扱ってもらってしまった。
伊岸先輩が優しい人だとは知っているけど、ここまで優しくしてもらうとなんだか申し訳なくなってくる。

「柚さん、寒くない?」
「あ、大丈夫ですっ」

肩までかかった(正確にはかけてもらった)ふとんが暖かい。
横になりながら先輩を見上げるというのは初めての体験で、なんだか不思議な感覚だ。
まるで自分が本当に患者さんで、先輩が看護師さんみたいな錯角に、一瞬だけど陥ってしまう。
先輩が一緒なら、本当に何でも治してくれそうな気になる。
まぁ、この腹痛は病気ではないのだけれど。

「熱はありそう?」
「大丈夫です。熱は、はい」
「んー……」

先輩は腕を組んで何か考え始める。
何かぶつぶつ『あれは確か……』とか、なんとか呟いている。
きっとこれは、先輩の性格なんだろうなと思う。
真面目で、本当に真面目で、責任感が強いところ。
そんなところが先輩のいいところで、直して欲しいところでもある。
先輩はちょっと真面目すぎて、何でも自分で抱え込もうとする。
付き合い始めて約一ヶ月弱。
先輩はいつでも私に優しくしてくれる。でもそれがどこか壁のようにも感じる。
こうして心配してもらえて、傍にいてもらえることがすごく嬉しいんだけど……。
……私って、欲張りなのかな。

「ちょっとごめんね」
「わっ」

突然だった。
先輩の手が伸びてきて、そのまま私のおでこにそっと触れる。
思わず体に力が入り、緊張してしまう。
手は移動をして、次は私の頬に手の甲が触れる。
大きくて、ひんやりとした感覚が火照る頬に心地よい。
思わず眼を閉じてしまう。

「熱は無いみたいだけど」
「はい……」
「どこか痛くない?」
「痛くは……ないです」
「そうか。……一応、体温計持ってくるよ」

そう言って、私の頬から離れていく手。

「……え?」
「あっ」

思わず掴んでしまった先輩の手を離す。
手で触れても、ひんやりと冷たかった。
……って、何考えてるんだろう私。
先輩が驚いた顔のまま私を見ている。

「ご、ごめんなさい。何でもないです」

たまらず沈黙を破ったのは私だった。
浮いたままだった自分の手を布団の中に押し込んで、手早く布団をひきずりあげて顔を隠す。
ああ、駄目だ。今更じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
ふとんに隠れているけど、今自分はすごく情けない顔をしている気がする。
……とりあえず理由をでっちあげよう。言い訳をしよう。
そうしてどうなるわけでもないかもしれないけど、このままでは辛い。私が。
…………。
理由が出来あがったので、ぐっと唇を噛んで気合を入れる。
顔を半分出して先輩の様子を伺おうと思い、まずはそろりと目だけ出してみる。

「…………?」

盗み見た先輩は頭を抱えていた。
片手でおでこを押さえ俯いたまま動かない。
どうやら私が見ていることには気付いていないみたいだ。
どうしたんだろう。もしかして……頭痛?
大きく溜め息をはいて、さらに視線を落とす先輩。
そ、そんなに重度の頭痛が襲ってきたんだろうか……?
ふと先輩が視線を上げ、私の方を見た。
先輩と私の視線が交わる。

「頭痛ですか?」
「え?」
「その、先輩が頭を抱えているから」
「あ、これ。いや違うよ……うん」

そう言って、手を首筋に当てて苦笑いをする。
先輩の視線がずれて、今度はカーテンの隙間の向こうの窓に注がれた。
本当にどうしたんだろう、私、何か変なことをしただろうか。
まぁ、したといえば手を急に掴んでしまったけど……
今度は先輩が先に口を開いた。

「柚……さん」
「はい?」

顔をふとんから完全に出す。
どうにも先輩の様子がおかしい。
首筋に手を当てたまま、何か言い難そうに口ごもっている。

「あ〜……すごい、うん、破壊力……」
「???」

いよいよわけがわからない。
破壊力?格闘ゲームの話だろうか……
先輩はひとつ咳払いをすると、近くにあった丸い椅子を引き寄せて座った。
そのまま喋り始める。

「……宗太の話はしたよね」
「花菱くんのこと、ですか?」
「そう。いとこだって」

先日知ったことだけど、花菱くんと伊岸先輩は血縁関係にあるらしい。
しかも家がお互い近いので、ほとんど兄弟のような感覚だという。
二人の関係を知った時……いや、実際今でも少し信じがたい話だと思っている。
なんてったってどこも似ていないし、二人でいるところもなかなか見かけたことが無いから。
私は先輩の方に体を傾けて、話を聞く体勢になった。

「宗太が小さいときなんだけど、よく体調を悪くしてたんだ」
「花菱くんがですか」
「今は大分マシになったよ、あのときに比べれば。でもそのせいで小学校低学年くらいまでは、まともに学校に通えなかったんだ」
「そ、そんなに悪かったんですか?」
「ああ。入院も……二、三回したかな」

それは知らなかった。
伊岸先輩もだけど、花菱くんもあまり自ら進んで自分の話しをしたりはしない。
顔は似てなくても、そういう内の部分は似ているのかもしれない。

「そういう時、俺はいつも病院について行ったし、入院した時は毎日お見舞いに行ったよ」
「そうなんですか」
「ああ、そうじゃなきゃ宗太が文句を言うんだ。『兄ちゃんも来て』って」
「へぇ……」
「意外とワガママなんだよ。外に出さないだけで」

そう言って、その当時を懐かしむように先輩が笑う。
そんな様子を見て、兄弟っていいなぁと思ってしまう。本当に兄弟ではないのだけれど。
ちょっと想像してみたけれど、駄々をこねる弟とそれを聞いて困る兄。
それはなんだか微笑ましい光景な気がする。
先輩が話を続けた。

「それで……病院に行くまではいいんだけど、俺が帰ろうとすると宗太がごねたんだ。……本当にあれには困ったよ」
「ごねる?」
「『あとすこし』とか言って俺の服つかんで。本当に帰ろうとすると点滴うってるのにベットから出ようとするから……俺もなかなか帰れなくて」
「それは……なんというか」

花菱くんかわいいな……とは言わず、それは心の中に収める。
困った。今度から花菱くんのことをまともな目で見られない気がする。次の部活どうしよう。

「でも、一つだけ逃げ切る方法があって。いつもなんとか、それで帰ってたんだ」
「どんな方法ですか?」
「まずは宗太をベットに寝かせて、ふとんを丁寧にかける。……そして目を閉じさせるんだ」
「こうですか?」

そう言って、私は眼を閉じてみた。
「そうそう」と言う声が聞こえて、先輩の気配が近づいてきた。
そのまま先輩の手がまた私の額に触れて、低めの体温が伝わってくる。
眼を閉じたまま、次の言葉を待った。

「3つ数えたら、あなたは寝てしまいます。3、2、1」
「えっ」

思わず眼を開いてしまった。
視界には楽しげに笑う先輩の表情だけがあった。

「こうやると、宗太寝たんだよ。正確には寝たフリだけど」
「へぇ……」
「だからよくそのまま寝かせて帰ったよ。……今思うと、ちょっと無理矢理すぎて可哀想だったかなともう思うけど」
「う〜ん、難しいですね」
「そう、難しかったんだ」

額に当てられていた手が動いて、髪をひと撫でされる。
ただ手が動いただけなのにドキっとしてしまう。

「だから毎日そうやって病院から帰ったよ。
でもある日、また寝かそうと思ってこうやって額に手を当てたら、俺の手を掴んで、『今日は寝ない』って言ったんだ」
「えっ、それは……」
「ああ、その時はぎょっとしたよ。……今まで気を遣ってたんだなってこともわかったし」

まぁどうにか帰ったけど、と言いながらもう一度髪を撫でられる。
ああ……なんだかほっとする。

「今、それを思い出したんだ。……ごめん、面白くない話で」
「そんなことないですよ、面白かったです」
「本当に?」
「はい。私、花菱くんと似たようなことしたんですね」

あははと笑い、どこか照れくさい気持ちを吹き飛ばす。
もしかしてさっきの私の行為は、子供っぽいと思われただろうか。

「子供のときはそういう可愛げがあったのに、今じゃ立派な皮肉屋だよ。……これからも宗太と仲良くしてやってくれ」
「そんな、私が仲良くしてもらってるんですよ」
「はは、そう言ってもらえると助かるな」

花菱くんとは最近、ゲームの話で盛り上がっている。
ソフトを貸し合って、あーでもないこーでもない……とにかく話しまくっている。
もしかしたら、今部活の中で一番話をしているのは花菱くんかもしれない。

「でも、やっぱり宗太と柚さんとじゃ色々違うよな」
「どういうことですか?」
「え?あ、いや、……同じ呼び止められ方でも、感じるものが違うと思って」
「違うんですか」
「うん、違うな」
「えっと……どんな風に?」
「それは、だって、柚さんの方がかわいいだろ?」

さらっと言われ、私は反応できずに固まってしまう。
本当にさらっと、先輩はまるで「おはよう」を言うようにさらっとその言葉を言った。
それがどれだけ私に影響力のある言葉かまるでわかっていないらしい。
そんな私には構わずに、先輩は話を続けた。

「さっきは……本当、結構緊張したよ。柚さんが俺の手を掴んで、急に顔を赤くしてふとんの中に隠れるから……」
「…………」
「……うーん、なんていうか、破壊力がな……」
「…………」
「は、破壊力っていうのは言葉のあやで、その、すごくかわいかったってことなんだけど」
「伊岸先輩っ」

耐え切れず、私はがばりと起き上がる。

「そっ……それって、本当に私のことですか?」
「もちろん。柚さん以外に、俺の好きな人はいないよ」
「…………」

言葉に詰まってしまう。
こういう時、何て言えばいいんだろう。
わからなくて、私も思いのままを伝えてみる。

「私だって、伊岸先輩以外に好きな人なんていません……」

最初の方は先輩の事を見ていたけど、後半はどんどん視線が自分の手元に落ちていった。
だって、こんなこと、恥ずかしい。
耳の奥で心臓の音が鳴り響く。

「…………柚さん」
「えっ、はい」

下がっていた視線を元に戻すと、さっきより少し近い位置に伊岸先輩の顔がある。
何も言わないで、私の左頬に手を添えて。

「…………」
「…………」

じっと私の瞳を見つめている。
そういうこと、なのだろうか。
こんなに近くで見つめあったことが無くて、私の視線は泳ぎまくっている。
そして、もし想像があっているのなら、これが私の初めてになる。
唇がこわばる。
そして伊岸先輩がさらに距離を縮めて、鼻先が触れそうな距離になった。
意を決して、少しだけ自分から距離を詰めたその時。

「二人で何してるのかにゃ?」

がたたたっ
盛大な音をたてて椅子から転げたのは先輩だった。
私も驚いて、声がする方に首を動かす。
するとカーテンの隙間から顔だけ出して私達を見ている百合川先輩がいた。
何も悪びれたそぶりは無く、ただ純粋にこっちを見ている。

「ゆ、ゆ、ゆ……!」

伊岸先輩は気が動転しているのか、上手く言葉が発せられていない。
さらに百合川先輩の後ろから声がして、カーテンが広く開けられる。

「まぁ、伊岸部長に籾山さんではありませんか。……こんな所で何をしていまして?」
「し、白雪先輩……」

白雪先輩がちらと私を見て、意味ありげに笑う。
……それは一体、どういう意味ですか白雪先輩。

「ユリ様、お次に参りましょう」
「行く!どこどこ?」
「図書室なんて如何でしょうか」
「いくいく!ラブラブで、ね?」
「まぁ、そんなユリ様ったら……ウフッ」

そう言って二人は腕を組み、楽しそうに保健室を出て行った。
実に楽しげに…………
…………
伊岸先輩が立ち上がって、自分の制服を整えている。
深く息をはいた後、私の方を振り返った。

「……体は、どう?」
「え?あ……はい。そういえば、全然、大丈夫になってます……」

腹痛はいつのまにかどこかへいなくなっていた。
腰の違和感も、ゼロというわけではないが大分楽になっている。
先輩はふっと微笑んで、転がった椅子を元の位置に戻している。

「よかった。それじゃあ、そろそろ帰れる?」
「はい、そうします」

私もベットから出てふとんを正す。
ブレザーを着て、鞄を肩にかけてみる。
……うん、大分楽になった。先輩がいてくれたおかげかな。
ベットに寝ていたせいで、スカートにしわができている。
無駄かなとは思いつつ、手でいっぱいのばしてみることにした。

「それにしても、百合川先輩と白雪先輩……どうしたんでしょうね。二人で校内探検でもしてるんですかね」
「あ、白雪は今年で……」
「?」
「……いや、何でもないよ。あの二人のことは俺にもよくわからないな」
「私もです。でもとっても仲がいいですよね」
「そうだな」
「二人とも部活からいなくなっちゃって……本当に寂しいなぁってみんなで話してたんです。
部室も広く感じるし、静かになった分みんなで盛り上げてますよー。
……あ、もちろん伊岸先輩がいなくなっても寂しいですよ。いつも私たちのことまとめてくれてたから……」

そこで、下げていたはずの右手が急にバンザイをするように上にあがる。
自分の意思であげたわけではなく、正確には外からの力によってあげられた右手。
手首にはひんやりとした感触。
ふとそちらを振り向く。

「…………」

眼を閉じる暇も無かった。
時間にして、それは二秒とか三秒とかそんな感じだったと思う。多分。
とても長く感じた。

「あ……」

先輩の気配が離れると、情けない声が出た。
上げられた右手が、ゆっくり下げられる。
そして私の手首から先輩の手が離れた。
それでも右腕の手首にはまだ先輩の手のリアルな感触が残っている。
今、私…………。

「……そろそろ、日も落ちてきたね」

先輩は何事も無かったみたいに私に背を向けて、保健室の戸締りを確認を始めた。
外はオレンジ色から暗い青に変わっていた。
私はというと、ただぼーっと立ち尽くしていた。
…………あれ?今のって、夢?
思わず唇に手で触れてしまう。

「さあ、帰るか」

先輩はプリントを指でぱらぱらと動かして、なにやら確認をしている。
それも手早く済ませると、デスクの上に戻して鞄を持って保健室の入り口に向かった。
私の足は、まるで石みたいに固まって動かない。
どこかリアルじゃない感覚と、ものすごいリアルな感触とが混ざって脳がぐるぐるしている。

「……大丈夫?」

動かない私を見かねて、先輩は声を掛けてくれた。
石のようだった私の足が急に先輩目掛けて走り出す。
そのまま腕にからみつく。

「…………」
「……柚さん?」
「……………………」
「こ、困ったな……」

なんだか少し、花菱くんの気持ちがわかる気がする。
先輩を困らせると、確かにちょっと楽しいかも。

「……ねぇ、先輩?」
「何だ?」
「さっきのは、ずるいと思うんですけど……」
「うん、ごめんな」

そう言いつつ、どこにも悪びれたそぶりを見せない。
そういうところもずるい。何もかもひっくるめて先輩はずるい人だ。



「は、初めて、だったんですけど…………」

上目遣いで先輩を見上げて、告白をしてみた。
多分顔は真っ赤になっている。だってすごく熱いから。
私はさっきより強く、先輩の腕にしがみつく。
先輩は困りつつ、こう言った。

「それは……お互い様だろ?」

そして頬に柔らかな感触が降ってきた。
またもや不意打ち。
ほんの一瞬だったけど、わたしは驚いて肩をびくりと震わせてしまった。
先輩の表情は、なんだか楽しげで。

「も、もう!先輩!」

私はさらにぎゅうっと腕に力を込めて先輩にくっつく。
恥ずかしくて恥ずかしくて、とても顔を見せる気にはなれない。
先輩が上の方で笑う気配がして、そのまま保健室の電気を消した。
歩き出す先輩にしがみついたまま、私も歩き出す。
なんだか変な格好。
それでもいい。
だって、先輩が何も言わないで私のことを許してくれるから。
今はそれに甘えたい。



「……なるほですわね、あれが俗に言われる……」
「うんうん。バカップル?」
「大変勉強になりましたわ、ユリ様」
「俺もー!」

保健室の窓から覗かれていたことなんて……気付かないまま…………。