お昼を食べにおいで、と誘われたのは素直に嬉しかった。
私が高校二年生になり、先輩は大学生になって、早二ヶ月目。
久しぶりに会った百合川先輩は、やっぱり相変わらずだった。

「私は普通に、百合川先輩が大学に受かってたことに驚きです。しかも推薦枠なんて……」
「そぉ?」
「そうですよ」
「カンタンカンタン」
「そんなこと言えるの、ホント百合川先輩くらいですよ……」
「えっへん」
「面接してる先輩なんて、想像できないです」
「やってみちゃう?」
「今ですか?」
「うんうん」
「じゃあ……いきますよ」
「ふにゃふにゃ」
「……やる気あります?」
「まんまんなのだ」
「そ、それじゃあ…………ごほん」

ふぅ、と息をついた私は少しだけ眉根を寄せて表情を作り、面接官役になる。

「あなたはどうして、この大学の入学を希望したのですか」
「僕はこの大学の雰囲気が好きで坂上大学への入学を希望しました」
「ふ、雰囲気だけで選んだのですか?」
「それに加えて、僕が香取先生の著書のファンであるということも理由の一つです。是非香取先生の講義を、坂上大学の校舎で受けたいと思っています」

私はさらに眉根をよせる。役になりきるためではなく、百合川先輩を困った顔で見つめるために。

「先輩って、ホントなんていうか…………生活の上でのオンとオフが激しいですよね」
「おんとおふ?」
「スイッチの切り替えがすごいなぁって」
「その方が楽しいでしょ?」
「……というか、先輩って本とか読むんですね。少し意外かも」
「もっと俺のこと知ってね、柚にゃん」

そしていつの間にか私の頬に伸びていた手が、少し動いたかと思うと今日三度目のキスをされる。

「っ、先輩!」
「ふふーん、おいち」

そう言ってぺろっと舌を出す先輩に、ドキっとしてしまう私はやっぱり病気かもしれない。

「…………先輩、お願いですから人目をはばかるって言う言葉を知ってください」

「あ、そうだ柚にゃん。今度の土曜日のお昼においで」

相変わらず人の話は聞いていない。
違う、聞いているけど必要の無い情報はそこで上手いこと切り落としているのだ。
……ホント、そういう所は人を不快にさせないギリギリをついてくるのだから先輩は巧みだ。
もしかしたら、自分のことを誰よりわかっているのかもしれない。

「土曜のお昼に、どこにですか?」
「ダ・イ・ガ・ク」
「大学に……私が行っていいんですか?」
「食堂の人と友達になったら、美味しいパフェ定食を作ってもらったのだ!」
「えぇ……何してんですか」

でも先輩ならやりかねない。

「おねだりしたら、トクベツって」
「はぁ……すごいですね」
「だから、ね?」

そう言ってにっこり笑い、ウィンクをする先輩の瞳から星がぽろっとあふれた。



坂上大学は県内指折りの名門校だ。
その中の経済学部に百合川先輩は、いる…………らしい。にわかには信じ難いのだけれど。
先輩と経済という言葉が、結びつかないというか同じ世界の言葉に思えない。
そんなことを考えながら、私は一番お気に入りのコーディネートで自室の扉を開ける。
このシュシュは、先輩が去年のクリスマスにくれたプレゼントだ。
ブロック大会が終わり、翌々日のクリスマスイブは冬休みの始まる前日だった。
百合川先輩は出会いがしらに、挨拶もなく私の髪の毛を結っていた黒いゴムをずるりと外した。
私が何かを言う前に、手品みたいに先輩の指からフリルとレースがむくむくじわじわ溢れてきた。
驚いてその手元をじっと見ていると、今度は正面からハグをされる。

「しー」

と耳元で言うから、私は思わず二の句が告げなくなる。
じっと目をつむっていたら、すっと先輩が離れた。
私の左側に、そのレースとフリルが取り付けられていることに気づいた。

「これ……」
「メリークリスマス、みたいな?」
「み、みたいなって…………何ですかこれ」
「ふっふーん」

得意気に、陽気に、リズミカルに去る先輩は嬉しそうだった。
後から聞くと、それがクリスマスプレゼントだということがきちんと発覚し、その時は驚いた。
でも今は…………嬉しくて、くすぐったい。

「はぁ……」

さんざん先輩に悪態(?)をついてきたが、何だかんだで私は百合川先輩が好きだ。
先輩が桃ノ花学園を卒業していざ会えなくなると……なんだか生活が物足りなくなり、卒業式の三日後に折れて電話をかけてしまった。
からかわれて可愛くないことを言うのはお約束。
でもそれも嬉しかったり……するわけで。

「はぁ…………」

先輩のことを考えると頭がぽーっとする。
だからこうやってわざと大きく息を吐いていないと、夢の中のようなふわふわした感覚から戻ってこれない。

「はーーーー…………」

やっぱり病気だ。私は世界でたった一人の病気を患ってる。それも嬉しい。

「わっ」
「…………」
「す、すいません」

バスから降りたら、丁度大学の門の前だった。今ぶつかってしまった人は、ひょっとしなくてもここの学生だろう。
ぶつかってしまった部分が、やけに涼しく感じる。
そこでようやく、私と同じ年の人はいない孤独な敷地に足を踏み入れることに気づいた。
食堂は二階。そこまで無事たどり着けるように、私は少し胸を張って大学の門をくぐった。

「…………」

二階の食堂についた。
先輩が見当たらない。
私は慣れない地理に悪戦苦闘し、なんとか食堂までたどりついたのだが……先輩がどこにも見当たらない。
ただでさえ目立つのに、こんなに探しても見つからない。
きょろきょろしている私は、通り過ぎていく人たちの視線を集めた。
不意にドキリとする。
私はとっさに食堂を離れて、人通りの少ない廊下の隅に逃げる。
もう、約束の時間だよね?そうだよね?
場所も、二階の食堂って言われたよね?…………絶対、この間言われた。
緊張でケータイを触る指が震える。大きく息を吐いて、先輩の番号へ電話をかける。

「…………」

長いコール音の後に、無機質な音声が流れ始める。
すぐにまたかけ直すが、同じことだった。

「…………」

あまり泣き虫な方ではないと自負している私だけど、今は目頭がぼっと熱くなってきている。
ぽろっと、まばたきもしない私の目から一粒流れて、まばたきしたらもう二粒こぼれた。
何でだろう。何故だか寂しくて仕方がない。
お気に入りのコーディネートが急に馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「あれ……」

私の目の前で、誰かが止まる気配がした。
勢いよく顔を上げた。
百合川先輩では、ない。

「キミ……ここの学生でねぇべ?」
「え?」

視線の先には、白衣のお兄さんが目の前に立っていた。

「先生、キミは見たこどねぇなぁ。ここの学生でないべ?」
「は、はい……そうですけど」
「あんまりウロウロしてんでねえよ。あぶねっから」

そう言って頭に手が伸びてくるのを察して、私は素早く左にスライドする。

「あれれ」

この人、変だ。初対面の人の頭を、普通触ろうと思うだろうか。
それに白衣のポケットから丸まった雑誌が顔をのぞかせている。
……少し、エッチな雑誌が。
一歩後ずさる。
変な人…………しいて言うなら、百合川先輩みたいなニオイを感じる。
もう一歩離れようと思ったとき、後ろから聞き覚えのある足音がした。
軽快なステップが、近づいてくる。

「……なんだべ。もうみづがっちまったぁ」
「おにごっこ、おーわり」
「仕方ねぇの、ほれ、レポートだべ?」
「あーげる」

そう言ってその人は、手に持っていた白い紙の束を白衣の先生に渡す。
そのまま私を後ろから抱きしめてにひひ、と笑った。

「なんだべー!テメーの女か」
「ふふん」
「ハァ〜……百合川さんのレポート読んでもねぇ、おもしろぐねぇのよ。隙が無いもの」
「ちゃーんと、読んでちょ?」
「仕事が増えるー」
「柚にゃん〜」
「ひっ」

唐突に私の肩に顔をうずめてきた先輩は、甘えた声でさらさらの髪の毛を私の首筋にすりあわせる。

「カトリンが意地悪するの〜」
「か…………え?」
「おい!変な名前つげんな」
「じゃあカトリーヌ?」
「悪化してっぺ!」
「あ、あはは……」
「よーし逃げろ!」
「え?わっ、せ、先輩!」

ぱっと離れ、手を握られたかと思うとそのまま走り始める先輩。

「ちょ、っ、危ないですよ先輩!」



全速力で走る先輩はあはは、と笑っていてすごく楽しそう。
私は突然のことに足をもつれさせながら、なんとかついていく。
本当に……この人は人のことを考えているのだろうか。危うく派手に転ぶところだった。
二つの駆け足の音が廊下に響く。
廊下ですれ違う人たち誰もが、私たちを振り返った。
私も先輩につられて笑いが込み上げてきて、そこから堰を切ったように笑いが止まらなくなる。
すると先輩も本当に可笑しくなったのか、ひーひー言いながら笑って走っている。
右手で私の手を握り、左手で自分のお腹を押さえて、思い切り笑う先輩の後姿は清々しかった。



「レポート提出の、おいかけっこ…………」
「うんうん」
「それを言い出した先生も先生ですけど、受け入れる先輩も先輩ですね……」
「だって、楽しそうだし?」

ここは大学の中庭。
緑が溢れる中に、ベンチがぽつぽつとあり、その中の一つに座って話をしているワケだけど。

「楽しそうって……むしろ大変そうですよ」
「そぉ?俺走るのすきっすきの大好き」
「先輩って……ホント、何ていうか」

少しおかしみがこみ上げて、口元が緩む。
それを見て百合川先輩は唐突に私にキスをする。

「っ、……せ、先輩!」
「なぁに?」
「ここ大学ですよ!」
「だから?」
「だ、だから、いつ人が来るかわからないのにこんなこと……今はたまたまいないけど…………」
「どこにいても柚にゃんが大好き」

そう言って今度は両手で私の頬を包むから、私はすぐにうつむいて胸板を押し返す。

「だ……だめです!」
「うにゅう」
「うにゅう、じゃないです」
「むにゅう」
「むにゅうでもなくて!」

胸板を、もっと力を入れて押し返すけど先輩は全く気にしてない。
今度は私の髪の毛をくるくる指に巻きつけて遊んでいる。
これだけでも恥ずかしいのに拒否しきれないのは、私にかかった病気のせいだ。
先輩は私の髪の毛で三つ編みを始めた。器用に動く指先の動きが、頭上から伝わってくる。
止めて下さい、どこだと思ってるんですか、TPOを考えて下さい、もう何度言っただろう。
口がすっぱくなる通り越して、もはや感覚が無くなるくらい言ったと思う。
また言ってみるけど、お構いなしに今度は結んだ三つ編みを指で挟んで遊んでいる。
私だけがあーだこーだ言ってると、そこにぱたぱたと女性らしい足音が近づいてくる。
私ははっとして、今出せる渾身の力で先輩を押し返した。
すると、拍子抜けするくらいすっと体が離れた。

「百合川くん、今いいかな?」

…………。
大学の……友達だろうか。
キャラメル色の髪の毛にゆるいウェーブがかかっている。
胸元がざっくり開いたセーターにキャミソールを着ているだけのファッションは、谷間が丸見えで眼を疑った。
白雪先輩と毛色は違うが、確実に美人の部類に入る女性が目の前に立っていた。
ぱっちり二重の目は、ちらと私を見ると、すぐに百合川先輩に視線を戻した。
少し、居心地が悪い。
「部活のことでね、新しい脚本を刷ったから目を通して欲しいって」

演劇部が坂上大学にはあることを、私はこの時初めて知った。
そっか。百合川先輩、演劇部続けてるんだ。
この女の人は、部活の人なのかな。
きっとそうだろう。この学校で、この人と。
……この二人はどんな関係なんだろう。
仲がいいのかな。
綺麗だし、お化粧も上手だし、この学校に入るってことは勉強もすごくできるのだろう。
先輩と話してると絵になると思う。
大学のパンフレットに載せたら注目を集めそうだ。
想像をめぐらすと不安が込み上げてきて、急な孤独が私を襲う。
どうしよう。
この中で場違いなのって私だよね。
一番似合わないのって、そぐわないのって、私だよね……?
そんなことを考えていると、自然と視線は自分のパンプスのつま先に集中した。

「あ、それと前に渡した予定表のことなんだけどねー……」
「だーめ」
「え?」

百合川先輩は一方的に話す女の人の声を、たった一言で止ませた。
何が起きたのかわからなかったけれど、私はまだ顔を上げる気になれずにうつむいたままでいた。
すると突然に、先輩の白い指が私の喉に触れた。

「っ」

私の顔を指先一つで上向かせると、間をおかず本日二度目のキスをされる。
驚いた。
驚きすぎて、顔を背けるとか、押し返すとかいう発想も思い浮かばなかった。
女の人がただ呆然と私達を見ているのが少し見えた。

「ん、んん」

そのキスに違和感を覚えた瞬間、私ははっとして顔を背ける。
しかし離れることはできても、すぐに先輩の唇が私のそれを捉える。
後ろに手をつき、顔を背けてもまた顔を戻されて塞がれる。
少しずつ体が傾き、私は後ろに傾くようなポーズになり、先輩はその上に被さる様になる。
私はその体勢に耐え切れずベンチの座る部分に背中を完全につけてしまい、しまったと思ったときには遅かった。

「ん、んん、んんう」

私はすっかり押し倒され、人前で完全に唇を奪われる。

「せ、せんぱ…………んん」

角度を変えて、何度も口付けされる。
抵抗もしてみるけど力が入らず、ただじたばたするしかなかった。
……二人きりの時だって、こんな風にされない。
どうしたの先輩。
初めての感覚に私の心臓は激しく脈を打ち始めた。
目も開けられない。恥ずかしくて、もう何も見れない。
顔も耳も、感覚がなくなったみたいに熱さに浮かされて、少しの接触に敏感に反応してしまう。
先輩の髪の毛が私の頬をするすると滑っていくだけで、ドキドキが大きくなる。
そろそろ息が苦しくて、精一杯の力で先輩の肩に手を当てて、押し返す。
が、その手も先輩に捕まれ、もう抵抗する術は足しかない。
そう思っても、私の足はほんの少ししか地面から浮かない。
さり、さりと、草を蹴る音だけが私の足元でむなしくなっていた。
そんなことをしているうちに、先輩は角度を変えて何度も私の唇を奪う。
握られた手のひらが、息がかかる首筋が、触れ合う唇が、熱くてたまらない。
もうだめ。くらくらする。

「ふあっ」

音をたてて唇を吸われて、顔から火が出たように熱い。
ゆっくり先輩の気配が私から離れていく。
目をじっとつぶって、息を整える私の両手を握ったまま、一言。

「ごめんにゃ?今はお取り込み中、みたいな」

楽しそうに言う先輩の声は、いつもよりすこし低くて。
薄目を開けて、力なく首を傾けると、綺麗な足が後ずさっているのが見えた。
普通の反応だ。できれば、このまま見なかったことにしてほしい。
というかしてください。お願いします。何でもしますから、ここは見なかったことに。
そんなことを考えていると、信じられない言葉が私の耳に届いた。

「わ、私にもしてよ!」

…………え?

「私にもそういうこと、全然してくれていいんだからね?」

…………してくれて、いい?
こんなことを、自分もされたいというのだろうか。
頭は大丈夫だろうか。

「こんな子にもしてとるんだから、私にもできるでしょ?……ねぇ、して!」

後ずさっていた足が、勢いよく近づいてきた。
私は手の自由も奪われ、おまけに体に力が入らないせいで起き上がれもしない。
首を回して先輩を見ると、すでに両頬をその人の手で覆われている。
見たくないと思い、ぎゅっと目をつむる。
いつもの声じゃない声が、上から聞こえた。

「柚と手前じゃ、比べ物にもならねぇよ」

…………。

「ひっ」

綺麗な足は、そこでようやく自分の立場を理解したかのように固まった。
百合川先輩は……何も言わない。
女の人はでたらめな走り方で私たちから離れていなくなった。

「…………」

完全に足音が消える頃、私はやっとまともに呼吸をしていた。
先輩の方に首を傾けると、どこか遠くを見るような目をしている。
どうしたんだろう……。

「先輩……」

私は握られた手を、ようやく握り返す。
あんな言葉遣いで話す先輩は見たことが無い。
もしかして…………罪悪感でも感じているんだろうか。

「先輩、あの……」
「う…………」
「う……?」
「う、う……うぅぅ」
「ど、どうかし……」
「うわーーーん!!!」
「え!?」

大声を出したかと思うと、突然そのまま覆いかぶさられる。
背中に腕を回され、耳元でわんわん叫んでいる。
何が起きたのか、全然理解できない。

「えっ……え、ええ?百合川先輩!?」
「こわい言葉使っちゃったー!」
「えっ、え??」
「うわーーーーん!!柚にゃーーん!!」
「せ、先輩!わ、わ、わかったから泣かないで下さい!声大きい!ちょっと、一旦離れて下さい!」
「うわーーーーーーああああん!!!!!」

周りに人が集まってくる。
ざわざわ、という音が何人くらい集まったかを嫌でも伝えてくる。
「何あれ」「百合川だ」「あの子は?」「知らない」「修羅場?」
こんな時ばっかり耳がさえて、周りの些細な声が全部聞こえてしまう。
ああ、もう何だっていうの。
神様、私は悪いことをしましたか。
何故こんな辱めを受けているのでしょうか。
というか、パフェ定食はどうなったの。
どうして食堂での待ち合わせすらこの人は守れないの。
こんな時、こんな時に、伊岸先輩がいてくれれば…………。
嗚呼、懐かしい響きだ、伊岸先輩。
助けて、伊岸先輩。私に覆いかぶさる大きい子供をどうにかして下さい。
頬に突然、何かが刺さる感触がやってきた。
それは先輩の指だった。



「なーんて、ね」

今度は耳に、熱い息が吹きかかる。